大げさなタイトルを付けてしまいましたが、陶芸家に限らず、物作りの現場は基本的に孤独です。
その孤独をどれだけ楽しめて、また普通に受け入れられるかは、作家の精神性においてとても大切な事だと思います。私は思えば小さい頃から、現実世界と空想の世界半々で、生きている様な子供でした。
小学生時分から、陽が昇る前、家族全員寝静まっている部屋で、お日様が昇るのを何時間もまち続けて、物語を作って自分と太陽の関係を考え続けたり。でも、そんな私の特性は、陶芸家稼業にはとても向いていると思うのですね。
もちろん物を作る時はものすごく集中力が必要とされる事がありますが、ある一定の峠を越してしまうと、ただ手を動かして作っていることも多く。そんな時は、とくに何を考えているかは別にして、何とはなしに妄想と現実を行ったり来たりして時間が過ぎて行き、そして物が出来上がって行きます。これは至福の時です。
私は陶芸の一連の仕事の中で”作り”と云われる、いわゆる造形の過程が一番好きです。
釉薬(陶器の周りを覆うガラス質)をかけて窯にいれ、焼き上がりが思うように行った時、
これは一番幸せな時です。(もちろん思うように上がらず、悲しい思いをする事も多々)
この繰り返しにハマって、結局やめられない、とまらない、世界なのです。
しかし、孤高な稼業。これを一番実感するのは検品の時。
もはや客観視できなくなっている、己の作品、釉薬の解け具合がビミョーに違う事があります。
実は私、サンプルと違った釉調で上がった時は、全て割ってしまいます。目につくと悲しい気持ちが再燃するし、どこかに流れた所で、嫌な気持ちは変わらないのです。
ここで難しいのが、どのラインからボツにするのか、という事です。
この時の判断こそ、自分の目にのみ課せられています。
そして自分としては、甘くしたい気持ちもムクムクと湧いてくるのです。
例えば旦那に見せてみると、その違いは全く解らないという反応だったりもします。
また逆に、私が良いと思っても人がどう思うか解らない、という不安もあるのです。
そしてまた千々に乱れる、私の心。
何度かこういった事を経験し、検品に関しては
結局は人の意見は関係なし。
自分が良いと思えるか否か、のみ。
というところに辿り着き、毎回うんうん唸りながら選んでいます。
そもそも違った釉調で焼き上がる事を減らしたい。。。
しかしこれが、陶芸家ならではの、難しい所。
窯は生き物、と表現されるように、思うように行かない事は常で、この作業は新しい物を生み出すたびに一生涯続くのです。
これがまた陶芸の魅力。思い通りにならない事程、深くのめり込んでしまうものです。
基本的に、負けず嫌いで、しつこい性格でないと、この仕事はできないのかもしれないですね(笑)
そして検品後の作品達が世の中で、どう受け入れられるか。
これは激しくも険しく、しかし楽しい道がまっているのです。